Kenny Style in Shanghai

魔都在住ビジネスマン

性都東莞時代を振り返る

SARSの真っただ中の香港へ渡航

私が広東省東莞市に住んでいたのはもうかれこれ16〜18年前にもなる。

当時大学を卒業したばかりで、香港の企業に就職した私はSARS真っただ中の香港へ飛んだ。渡航前に嫌というほどニュースでSARSの恐ろしさが報道されていたのだが、私は当時若かったこともあり、特に深刻に捉えていなかった。まあ、今考えりゃほんとバカだった。もちろん、親は心の中では泣いてたであろう。ごめんなさい。

香港に渡航したその日の晩、社長と董事長に香港式海鮮レストランに連れて行ってもらい、シャコを食べたら大当たり。病院もいけない中、下痢止めの薬を飲んでもトイレから離れられないぐらい酷い症状に見舞われた。

その日はほんとにトイレの便器から離れることが出来なくて、出勤できなかった。そこに追い打ちをかけるようにパ●ナの担当者が電話をかけてきて「あんたね、入社してすぐに休みとるって何考えてるの??これで首になったら私達お金もらえないじゃない!」とストレートなカミングアウトを頂き、心もどん底に突き落とされた。

香港から性都東莞へ

翌日社長に何故かそのまま香港からターボジェットに載って深センに上陸、そのまま東莞の寮步に連れていかれ「今日はここで勉強せえ」と言われ入ったのが当時東莞最盛期であったKTV(日本で言うキャバ+α)であった。大学卒業したばかりのチェリーボーイな私は部屋に入るなり、何十人ものキャバ嬢が部屋に入ってくる光景に面食らった。

「はよう選べや」

と社長に言われ適当に良さげな子を指名して横に座ってもらってよく見ると「うおっ!」と違う意味で驚いた。照明を暗くするとこれほど女性は綺麗に見えるものなのか

そこから社長の講座が始まった。お客さんの接待時はお客さんに先に選ばせる、自分のねーちゃんはお客さんのねーちゃんより綺麗な子を選ばない、極力ブサ〇クを選べ、トップバッターはお前がノリノリの歌を歌え、盛り上がってきたら一度バラードを挟み、客とねーちゃんを立たせて踊らせろ等金額にして1千万円相当の価値のあるノウハウを教わることが出来た。(ほんまにどうでもいい)

もちろん、下痢ぴーぴーなので、途中何度もトイレ行ったので社長やねーちゃんからも怪しい視線を浴びさせられまくった。当時日本の携帯を解約せず持ち込んでいったので、カメラ付き携帯がまだ販売されていない東莞(中国全体でもなかった)でカメラ付き携帯を持っていた私はその場にいた10人ほどのおねーちゃんに撮影を頼まれモテモテだったが、いかんせん当時の画素はたかがしれてる上、暗闇の中で撮影したので全員鬼滅の刃の鬼レベルのような恐ろしい顔に映っていたことはここだけの話。

カラオケ研修の翌日。東莞事務所に連れていかれ、私の東莞生活がスタートした。毎日サプライヤーを回って、検品やら品質指導を行う忙しい毎日。不良率70%のラインを日本人的ここがおかしいよ中国生産ライン的なところを指摘して改善しまくったら不良率1%以下になって、月給HK$7,000だったのがHK$24,000になってびっくりした(笑)

最盛期の東莞はほんとにすごかった

客先がほとんど日系もしくは日本の会社だったので、毎月4〜6組のお客さんが香港経由で出張してくる為、毎日仕事→KTVで接待の連続で月に休めたのは1日、よくて2日ぐらいしかなかった。土日もお客さんの求める怪しいサービスを斡旋したり、遊びに行くのに付き合ったりと休む暇がなかった。

気が付くと私の手元には30㎝定規ほどの高さのKTVのママさん達の名刺が溜まっていたのである。社長は「俺はお前の10倍以上あるでぇ〜」とマウントしてきたが、お酒強くない上に自腹で毎回チップ200元支払い、何も面白くないKTVにいる苦痛は想像以上に耐え難いものだった。特に嫌だったのが、客とおねーちゃんの間の交渉事を通訳すること。今でも思い出すたびに当時の嫌悪感が蘇ってくる。

当時の東莞の性産業は、伝説として伝わっている以上にすごい状況で、ホテルに関して言えば、市内の5つ星ホテル1軒を除いて全て連れ込みホテルだった。ホテル内には必ずKTVがあり、KTV内には100〜1,000人程のおねーちゃん達が待機していたのである。当時最大規模を誇ったのは香港から列車で中国側に入って東莞で止まる最初の駅であった「常平」で、駅近くにあった5つ星ホテルには私が在住していたころで1,200〜1,300人は待機していた。おねーちゃんの待機部屋だけで10部屋以上あったのを覚えている。客で一番多いのは香港人で、その次に台湾人、韓国人・日本人のような順だった。なので、当時のおねーちゃん達は香港人に取り入ろうと頑張って広東語を勉強していたのをよく覚えている。

KTV以外にも、いわゆる怪しいサービスを行う場所はたくさんあり、サウナがまず筆頭だった。それ以外ではマッサージ屋とか床屋とか、一見外観からは分からないような場所にそういうサービスを提供するところがあったりと、とにかく当時の東莞は性産業でもっているのではないかと錯覚するほど隆盛を誇っていたのである。

隆盛を誇っていた東莞が恐れていたもの

その隆盛を誇っていたKTVも唯一おねーちゃんが出勤していない日があった。武装警察のガサ入れである。日本の方は武装警察と聞いてもピンと来ないかもしれない。簡単に言うと事前通知なしで武装した警察(テロ対策班なみの重装備)が犯罪の温床になっているところを取り締まったり、直接怪しい取引の現場を力ずくで押さえに行くのである。KTV含め、性産業に携わる人達は彼らの存在を非常に恐れていた。捕まったら最後、どうなるか分からないからだ。

そもそも、中国のKTVのような客の横に女性がつくという行為自体が違法であり、現行犯逮捕されてしまう可能性がある。しかも、東莞にやってくる武装警察は、わざわざ広州からやってくる、広州武装警察が。東莞の人脈は全く意味をなさない。大手のKTVとかになると、ある程度の人脈を伝い、いつ襲撃が来るのかを事前にキャッチしており、その襲撃期間(大体7日〜14日)中はおねーちゃんを出勤させず、お店も営業停止していたが、人脈もなく襲撃時期が分からないお店たちはことごとく武装警察にやられていた。

画像2

※写真はイメージです。盾も持ってはりました。

日本の客先がこのような「休業期間」中に出張に来るとなると、我々もてなす側としては頭が痛い問題である。お店自体は空いているがおねーちゃんがいないというお店は確保できるのであるが、当時出張に来る客先は90%以上がKTV目当てのスケベーしかいないのである。KTVにおねーちゃんがいないことを知り激怒する客先。「てめーらにはこれから発注しねーからな!!」と豪語し、喚き、テーブルをちゃぶ台返しにするスケベージジイ。そこで社長から特命が舞い降りる。「おい、お前外行っておねーちゃんスカウトしてこい!」

これにはさすがに参った。私はチェリーボーイなので、それまでの人生でナンパ等したことがない。しかも、今回はナンパどころではなく、その先までを保証しないといけないのである。これは難易度が、というかそんなん無理やろと絶望したが、もうやけくそになって道端でこれはと思うストリートガールに声をかけまくった。(当時、藤沢数樹氏の「ぼくは愛を証明しようと思う」があったらどれだけ助かっただろうか…)

「ぼくは愛を証明しようと思う」

苦労して見つけてきたストリートガールだが、客先は気に入らなかったのか、また探しに行ってこいとの特命が舞い降りる。正直このスケベジジイをぶん殴って東莞の松山湖に沈めたろかと何度も思ったが、なんとかまた確保した。客先は満足していたので、社長からは「ようやった、もう先に帰ってええぞ。」と言われ何故か千元貰った(笑)その晩一人で長安鎮にあった台湾人ご用達の台湾料理で豪勢に飯を食べたことは今でも鮮明に覚えている。

画像1

东莞松山湖

※当時は湖の周りは殆ど開発されておらず、私が東莞を離れる頃ぐらいから急ピッチで開発が進んでいった。

このような生活を2年程続けたせいか、身も心もぼろぼろになり、日本に帰国することを決意したのだが、あの時代の東莞はほんとに狂っていた。まるで皆が東莞というブラックホールに吸い込まれるように集まって、狂騒曲を奏でていたのである。彼らが、その後どうなったのかは知らない。知るべくもないし、知りたいとも思わない。

ただ一つ言えることは、当時の東莞まじすげー

ほんそれ。

 

追記:2020年数年ぶりに東莞を訪れる機会があった。鎮も行ったが、久しぶりの東莞市内は綺麗な街並みで洗練された感があり、隔世の感を禁じえなかった。これもまた、新たな東莞なんだな、と妙に納得して旧「性都」東莞を後にした。